101117追記:結構超スピードで書いたので、ちょこちょこ修正しました。
亮と十代を軸にした、GX全体ストーリー考察。
折りたたみ。
GXの第一期というのは、「デュエルは自分のために楽しんでやる!」を布教(?)する十代がメイン。
で、実はその十代は、デュエル・アカデミアの「強い者(→結果として「勝った者」)が正義」の風潮に支えられている。この風潮を象徴するのが「カイザー亮」です。十代がアカデミアに居続けることができたのは、「頭悪くてもデュエルはできるってことは、勝って証明すればいい」という暗黙の了解をカイザー亮が保証してくれていたからであって、それが無かったら、十代は最初の時点でクロノス先生達の権力で、退学させられていてもおかしくはなかったはずです。(それを思うと、職員会議に何故か普通にカイザーがいるのって、地味に重要な描写だったり…カイザーの権力はクロノス先生にも負けません\(^o^)/)
そして第二期、十代は亮が渡してくれたバトン、「アカデミアのトップ」のポジションに守られながら(もちろん、その実力を持った上で、ではありますが)、やっぱり同じように「自分のためにやる楽しいデュエル」を布教していくのですが、一方亮はプロリーグの洗礼(?)を受けて、その「勝ち残る者が正義」の闇の面に(一度は)落ちて行きます。
鮫島校長の思惑に反して、十代が亮を止めるために闘うことができなかったのは、この事実に半ば気付いていたからなのかな?とも思ったりします。十代自身「要は勝てばいいんだろ?」の論理で闘ってきた人だから、亮のしていることを否定しきれなかった。亮がしていることは仲間を傷つけることで、悪いってことは分かるんだけど、「じゃあ何が悪いんだ?勝利を求めることが悪いなら、自分も同じはずじゃないか?」っていうような戸惑いが、無意識ながらあったんじゃないかなと。
実際、勝って輝く十代の影に、存在が霞んでいく三沢という敗者がいたりする。そのために三沢は苦しんでいる。でも、それは十代が悪いわけじゃない。その違いは何か、っていう問題提起が、第二期では着々と準備されているわけです。
十代はそんな中で戸惑いながらも、亮が何かを間違ってる、何かを踏み外してる、ってことは分かってた。(っていうか、「カイザー、それほんとに楽しいのか?」みたいなことを考えてたかもしれない)。だから自分では止められなかったけど、亮を止めようとした翔を後押しすることはできた。でもやっぱりそのセリフは、「負けんじゃねぇ、翔!」なわけです。
で、いよいよ第三期は、十代が自分の主張を通すための土台として使っていた、「正義は勝つ!」という方法論のリスクが前面に押し出されてきます。
十代が何故この方法論を使うことになったかという根本の理由は、十代の夢がヒーローだからです。ヒーローは(誰かを守る為には)負けちゃいけない=強くないといけない=勝たないといけないわけで、これ自体には何の間違いもない。
だけど、何故勝たなければいけなかったかを忘れるな、何のために勝利を求めるのか忘れるな、そうでなければ力が持つ闇に囚われることになる、それが十代が覇王に堕ちて行った理由です。
十代は、ユベルに気を取られ過ぎて忘れていたんです。自分が「ヨハンを助けたい」のは、「仲間全員に生きていてほしい」からで、その「仲間」には万丈目達も含まれていて、万丈目達も生きていなければ、十代自身にとっても勝つ意味は無いんだ、ということを。
こうして十代の「正義は勝つ」は、たとえ勝っても決して埋まることの無い「仲間の喪失」という傷によって反転してしまい、「勝ち残る者が正義」の覇王が目覚めます。
覇王として殺戮を繰り返し、決定的に「間違えた」十代の元に、亮はもう一度現れるわけです。もうこれは必然と言うしかありません。亮もまた、十代と同じように間違えて、それを自覚してなお生きてきた人です。この亮の至上命題は、罪悪感から死へ向かいかけている十代に向かって「生きろ!」と言うこと、生きる意志を起こさせることです。
しかし、GXの恐ろしいところは、それを言うためには十代の悩み全てについて応答しなければいけない=GXが書こうとしているテーマを余すところなくすべて書かなければいけないと言うところです。ヘルカイザー亮VSダークヨハンは、GXのテーマの全てが凝縮されているデュエルだったりするんです!(笑)(そう考えるとあのデュエルが結構人気なのは、スタッフの苦労が報われてるってことなのかなぁと、他人事ながらそういう意味でも嬉しくなったり…・笑)
覇王の一件でパワーフォビアと化している十代に、亮のデュエルはどういうメッセージになっているのか?簡単にまとめると以下のような感じかと思います。
「力に危険な面があるのは事実だ」(←「(この攻撃が通れば、ヨハン、貴様は死ぬ…だが、もうだれにも止められない)」「力あるカードにはリスクが伴う」)
「だから怖いのは間違いじゃない」(←「オレは死なない…この輝く瞬間を感じている限り、オレに死の闇は訪れない…」※これは半分は「死にたくない、死ぬのが怖い」を言わないための強がり)
「デュエルは楽しいほうが良いに決まってる」(←「お前なら分かるだろう?オレは今、最高の充実感を味わっている。この大事な一瞬を、邪魔はさせん!」「今この瞬間を輝かせたい、そんな心境に達することができた」)
「だけど何かを守る為には、勝たなきゃいけないときが、力が必要なときがある」(←「ヨハンに取り着きし者よ~ヨハンから離れろ!」)
「お前の背負っているそれが本当に罪なら、償うべき時は運命が教えてくれる」(←「オレに介錯は要らん…!」)
「だからそれまで、罪を背負ってでも生き抜け」
ここまでが、亮から十代への一方的なメッセージです。そして亮は、「笑うなら笑え…」という言い方で、そのメッセージに対する十代の返答を求めます。これは亮が、「ヘルカイザー」として話しているからこの言い方なんですが、言い換えればこれは亮の、「お前はオレを、許してくれるか?」という問いかけでもあります。
十代の答えは―「オレは自分が恥ずかしい。自分の力に怯え、その力から逃げていた自分が、許せないよ」―亮のメッセージの肯定、要するにイエスです。十代にとっては、亮がパワー・ボンドでサイバー・エンドを召喚した瞬間、何もかも忘れて亮のデュエルに夢中になれた時点で、それまでヘルカイザーのために受けた心の傷は全部清算されていた、と言ってもいいと思います。
そして、十代が亮を許すことは、翻って、十代が許されるための道が、十代の目の前に開くことです。その一人目、亮に向かって十代は「オレは、あんた以上に輝いて、奇跡を起こしてみせる」という言い方で許しを請い、亮は「ああ、消えて行った皆もきっと、それを望んでいるだろう」という言い方でそれを受け入れます。
亮と十代が「罪」に対して出した答えは、喪失を補填するような「償い」とは違います。亮がエドに「(リスペクトを忘れて)負けた事実」、ヘルカイザーとして誰かを「傷つけたという事実」や、十代の焦りによって「犠牲になった仲間」、「覇王に消された命」は、どんな対価を払っても償うことのできないもの、「何者にも代えられない、償うことのできない罪」です。死ですらその償いにはなりません。
(法律というのは、小さいかろうが大きかろうが償えるわけがないという意味で等しい罪(かもしれないし、罪ですらないかもしれないもの)達を無理やり比較して測量するものなんだ、ということは心に留めておいてほしいなぁと思います。法律は冷たいもの。それに血を通わせるのは、それを使う人間の心です)
そして、だからこそ「罪を背負って生きる」という選択肢が生まれてきます。償うことのできない罪に向き合って、自分はどうするべきか?亮は「最強の敵と最高のデュエルをすること」、十代は「仲間たちから託された期待に応えて、最初の願いを叶えること」を、それぞれその答えにします。
そしてその答えがもたらすのは、償えない罪に対する「赦し」。どう足掻いても償うことのできない罪が唯一許される道は、自分では絶対に手が届かないところ(=他者)から与えられる「無条件の赦し」です。
第三期は、間違いに間違いを重ねて十代はいろいろと罪を背負っているのですが(罪って言い方がしっくりこない人も多いとは思いますが)、その中でも、十代が存在を懸けることになった罪は、「ユベルとの約束を忘れたこと」です。この約束をしたのは前世の王子であって十代ではないんですが、「継承」(次世代)の物語であるGXは、「だから十代は無関係」とは言いません。
十代には、王子を自分から切り離して、ユベルを見捨てる道も、無かったわけではありません。けれど永遠の愛の約束を忘れ去られたユベル自身は、その点に関しては何も悪いことはしていません。(忘れ去られたことで悪い方へと転がっていったんであって、その罪は十代に傷つけられることでユベルへと還っていっています)。そんなユベルを救えるのは、王子から覇王の魂を継承している十代だけです。十代はそれを分かっていたし、何より無条件にユベルを愛していた(王子の永遠の愛の約束が、時空を超えても正常に機能していた)ので、ユベルのために存在を捧げます。
王子の「永遠の愛の約束」は、世代を超えて受け継がれるもの、受け継ぐべきものの象徴です。それは一見理不尽なようですが、十代はその約束を守った結果、ユベルという魂の伴侶を手に入れることになるわけで、一方では十代から全てを奪うものであり、もう一方では、十代自身に永遠の愛を約束するものでもあったことになります。
そして第四期、自分の使っていた力のリスク(力は誰かを傷つける)と方法論のリスク(負けたら大切な人を守れないし、そうなったらその人も自分も両方傷つく)を知ったことで、一応亮のデュエルの中でこっちも肯定されてはいるのですが、「楽しむ余裕」が十代からなくなってしまいます。
でもシナリオ的には、まずはとりあえず頑張れ、というわけで、その状態でダークネスを倒します。ここでユベルが一時的に力を貸せなくなるのは、愛の届かない場所、「愛されなくとも生き抜く力」までGXが書きたかったからだと思います。
第三期までは、十代は子供です。そんな十代の生きる物語は、「人間は誰かに愛されるべき・愛するべき」という信念の上に立つ、「あなたを愛してくれる人はきっといる。愛してくれる人を大切にしなさい」という世界観です。
けれど第四期は、十代は大人です。結果として、この世界観が反転します。「てめぇも大人なら、愛が無いと生きていけないなんて甘いこと言ってんじゃねぇ!愛されなくたっていじけんな!もうお前は「愛する側」なんだよ!」という感じです。なんとも厳しい(笑)
けれどそれは、決して愛されないことを意味しません。あくまでそれは、「自分から愛さなければ始まらない」というだけの話です。そして自分から愛すること=十代が仲間たちと築き上げてきた絆の結晶、E・HEROゴッド・ネオスを召喚することで、ユベル=愛を取り戻します(笑)
そしてその後、他人の期待を感じなくていい、当事者以外に誰も入りこめない時間の狭間で、勝ち負けが掛け値なしに一切「関係ない」遊戯とのデュエルで、十代は「楽しいデュエル」を取り戻す、という構成になっています。
十代と遊戯のデュエルは、十代がずっと言い続けてきた、「自分のためにやる、楽しみさえすれば勝ち負けなんて関係ない!」デュエルです。だからこそ、遊戯と十代のデュエルの決着は、視聴者には明かしてもらえません(笑)
ここでユベルが非常に重要な役割を担っていることから言っても、GXの結論はやっぱり「人間は、誰もが愛されている」「だから一度きりの人生、精一杯楽しみなさい」ということなわけで、ダークネス戦での厳しさはどこへやら、なんだかんだ滅茶苦茶甘いと思います(笑)
しかしこうしてみると、あの遊戯とのデュエルはあらゆる意味で「正しい」です。GXというストーリーに関わってこなかった、十代と何のしがらみもない遊戯と、時空のしがらみさえ超えた場所での、結果の分からないデュエル。これ以上に「勝ち負けの関係ないデュエル」にふさわしい条件はなかなか無いと思います。どこまで頭で考えたのか本当に知りたい…。
以上、なんか突発的なGXのストーリー考察でした。なっが!
pixivからこのサイトにはリンク等を貼っていません。あんな大手SNSからこんなコアなサイトに直接飛べるようにする勇気無いです\(^o^)/
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